『死に往くものへの作法 ~医療の現場で期待される僧侶の力~』の演題で、高野山真言宗僧侶かつ看護師の、玉置妙憂師に講演いただきました。
45名の参加者の内訳は、僧侶以外にも、看護師や弁護士、内気な大道芸人など多岐にわたり、皆さんの関心の深さが伺えました。
内容の詳細はfacebookの法話研鑽会イベントページで紹介されていますので割愛します。
世界保健機関(WHO)憲章の前文で、健康を以下のように定義しています。
『健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます』(日本WHO協会訳)
身体の健康、精神の健康、社会的な健康。そして、WHOでは、1998年に、それにプラスしてスピリチュアルな健康(spiritual health)が提案され、1999年に提言されています。この「スピリチュアル」というのが、日本人にはなかなか理解しがたく、霊的とか、尊厳などと訳されています。どうも、金髪で太った和服の人のせいで、怪しげな印象も付きまといます(^^;)
玉置師曰く、人は余命を宣告されると、今まで閉じていた、心の箱のフタが開き、誰もが過去を振り返る。そして、答えは無いが問わずにはいられない問題を抱え、苦しむ。

「わたしの人生はなんだったのでしょうか」
「生きている意味はあるのでしょうか」
「わたしはあとどのくらい生きていられますか」
「いっそのこと死んでくれたら…と思ってしまうときがあります」
「死んだらどうなるのですか」
「死んだらどこへ行くのですか」
これらの、スピリチュアルペインを抱えた人たちが、病院から自宅にどんどん帰ってくる時代が、すでに始まっています。今後、病院のベッドが、どう考えても足りず、自宅での看取りが推奨されているからです。
「病院のベッドの上では無く、自宅の畳の上で最期を迎えたい」
なんとなく、理想的ですが、そこには、亡くなる人の家族が負う、ものすごくたくさんの代償、苦悩がもれなくセットになっています。
かつて、誰もが自宅で亡くなっていた、高度経済成長期前と違って、現代では、物が食べられなくなっても、呼吸ができなくなっても、人は死にません。
どこまで延命するか、どこで誰が看取るか、親族間の感情のずれ、その他様々な選択が、これまで一度も「死」を考えたことが無かった人にドバーッと圧し掛かってきます。
そして選択が多ければ多いほど、逡巡し、その答えに後悔がつきまとうと言われます。
ちょっと風邪をひいただけで薬を飲み、エアコンのある暮らしをしている我々にとって、“自然な”最期とはなんだろう?
、、、、、なんでしょうね。